オードリー・ヘプバーン出演作品全集
オードリー・ヘプバーン初期作品と舞台経験
オードリー・ヘプバーンの女優人生は、1948年のオランダ時代から始まりました。彼女の最初の映画出演は『オランダの七つの教訓』というドキュメンタリー・タッチの作品で、当時わずか19歳という若さでした 。
参考)http://cinepara.iinaa.net/Audrey_Hepburn_Filmography.html
バレエダンサーを目指していたオードリーは、5歳頃からバレエを始め、アムステルダムでソニア・ガスケルのもとでバレエを習い、1948年にマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンに渡りました 。ウエスト・エンドで舞台経験を積んだこの時期が、後の女優としての基礎を築く重要な期間となりました。
1951年のイギリス時代には、『若気のいたり』『素晴らしき遺産』『ラベンダー・ヒル・モブ』『若妻物語』といった作品に立て続けに出演しました 。特に『ラベンダー・ヒル・モブ』では、アレック・ギネスという名優と共演する機会を得て、映画界での注目を集め始めました。
オードリー・ヘプバーン代表作『ローマの休日』成功の軌跡
1953年公開の『ローマの休日』は、オードリー・ヘプバーンを一躍スターダムに押し上げた記念すべき作品です 。アン王女役で出演したこの作品により、彼女はアカデミー主演女優賞を受賞し、ハリウッド黄金期の象徴的存在となりました 。
参考)https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g27305844/audrey-hepburn-filmography-190504-hns/
グレゴリー・ペックとの共演で話題となったこの映画は、ローマの美しい風景を背景に、王女と新聞記者の束の間の恋を描いたロマンティック・コメディーでした 。オードリーの自然で上品な演技は、従来のハリウッド女優とは一線を画す新鮮さで観客を魅了しました。
参考)世代を超えて愛され続ける俳優オードリー・ヘプバーン代表作3本…
興味深いことに、この作品の成功により、オードリーはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」で第3位にランクインし、インターナショナル・ベスト・ドレッサーに殿堂入りするほどの影響力を持つアイコンとなりました 。
オードリー・ヘプバーン『ティファニーで朝食を』制作秘話
1961年公開の『ティファニーで朝食を』は、オードリー・ヘプバーンの最も象徴的な作品の一つとして知られています 。しかし、この作品には多くの制作秘話が隠されています。
原作者のトルーマン・カポーティは、実はマリリン・モンローを主人公ホリー・ゴライトリー役に熱望しており、オードリーの出演決定を聞いて激怒したという逸話があります 。物質社会にどっぷり浸かった高級娼婦の役は、当時のオードリーにとって異色な役柄でした 。
参考)猛暑で気絶した馬の下敷きに…!?“永遠の妖精”オードリー・ヘ…
映画の冒頭で、夜明けのパーティー帰りのドレス姿でティファニーのショーウィンドウを眺めながらコーヒーとデニッシュで朝食をとる名シーンは映画史に残りますが、実はオードリーはデニッシュが嫌いで、代わりにアイスクリームを舐めるのはどうかと提案していたそうです 。
さらに驚くべきことに、現在スタンダードとなった名曲「ムーン・リヴァー」は、パラマウント映画の社長からカットを提案されていたという事実もあります 。
オードリー・ヘプバーン晩年作品と『オールウェイズ』での最後の輝き
オードリー・ヘプバーンの女優としての最後の作品は、1989年公開のスティーブン・スピルバーグ監督『オールウェイズ』でした 。この作品で彼女は、森林火災の消火活動中に命を落とした消防士(リチャード・ドレイファス)が天国で出会う天使役を演じました。
参考)https://allabout.co.jp/gm/gc/50936/2/
映画の中で、自分が死んだことを受け入れることのできない消防士を優しく包み、現世へ戻らせるときにかけた「魂は人のために使いなさい」という台詞が、オードリーの女優としての最後の台詞となりました 。この言葉は、ユニセフ親善大使として世界中を駆け回っていた晩年のオードリーを象徴するかのような内容でした。
1953年の『ローマの休日』から1989年の『オールウェイズ』まで、劇場映画は20作を数えました 。彼女の出演作品は興行成績の高低はあるものの、どれも時代を超えて愛され続ける名作となっています。
参考)オードリー・ヘプバーンの代表作おすすめランキングベスト10
オードリー・ヘプバーンが断った幻の大役とキャリア選択
オードリー・ヘプバーンは、その輝かしいキャリアの中で、実は多くの大役を断っていたことが知られています。アルフレッド・ヒッチコック監督の『判事に保釈なし』を暴力的な描写を理由に断ったと言われており、彼女の価値観が垣間見えるエピソードです 。
1959年には『クレオパトラ』(1963年)や『ウエスト・サイド物語』(1961年)、『枢機卿』(1963年)といった大作でも候補に挙がっていました 。しかし、『許されざる者』撮影中の落馬事故による脊椎骨折で流産した苦い経験から、妊娠中の映画出演は控えるようになったそうです。
『許されざる者』(1960年)は彼女にとって唯一の西部劇でしたが、撮影中の落馬事故により脊椎を骨折するという深刻なアクシデントに見舞われました 。この時の看病に当たったのが『尼僧物語』で関係を築いたマリー=ルイーズ・アベでした。
『マイ・フェア・レディ』(1964年)では、アメリカだけで3,300万ドルの興行収入を上げ、ワーナー・ブラザーズの倒産の危機を救いましたが、オードリー自身はアカデミー賞にノミネートされませんでした 。批評家たちは理想的な淑女としてのオードリーは賞賛したが、薄汚い花売り娘としての真実味に欠けたと主張しました。
参考)Bunkamura